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タイのM&Aにおける労働法務と従業員の承継・解雇規制を解説

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目次

タイのM&A(合併と買収)を成功させるためには、現地の労働法規制の理解が不可欠です。この記事では、タイのM&Aにおける労働法務の核心である従業員の承継、待遇変更、および解雇規制に関する法的要件と実務上の留意点について専門的に解説します。

タイのM&Aにおける労働法務と従業員の承継・解雇規制を解説

タイのM&Aにおける労働法務リスクの構造的理解

タイでのM&A(合併と買収)を検討する日本の企業経営層にとって、労働法務リスクの構造を事前に理解し、統合計画に組み込むことは極めて重要です。タイの労働法は労働者保護に重点を置いた仕組みとなっているためです。

タイ労働者保護法(LPA)の保護主義的原則

タイの労働法体系の中核を成すのは、労働者保護法(LPA: Labor Protection Act)です。タイの労働法制は、労働者の既得権益の維持と、労働者にとって不利益な取り扱いの制限を基本理念としています。この保護主義的な法制度は、M&A実行後に買い手企業が目指す組織のコスト効率化や迅速な組織統合を妨げる主要な要因となることがあります。

労働争議解決における傾向とリスク

タイでは、労働争議の解決に関して、労働裁判所が労働者側に有利な判断を下す傾向が強いです。また、労働者が労働局へ申告する手続が比較的容易であることから、M&Aに伴う組織再編を進める際に、手続的な瑕疵やコミュニケーション不足が致命的なリスクにつながる可能性があります。労働者への解雇が容易には認められにくいという点は、日本の法制と大きな差異はありませんが、解雇や定年退職の際には法定の解雇補償金を支払う必要がある点に注意が必要です。

M&Aスキーム別の労働契約承継ルール

タイのM&Aにおける従業員の承継ルールは、採用するスキーム(株式譲渡または事業譲渡)によって大きく異なります。タイのM&Aにおける労働法を理解する上で、この承継ルールの違いは必須の知識です。

株式譲渡(Stock Purchase)の場合

株式譲渡スキームでは、対象会社の株式を取得しても法人格はそのまま存続するため、雇用主は変更されません。したがって、労働契約は自動的に完全に承継されるのが原則であり、勤続年数や労働条件もすべて維持されます。最大の留意点は、買い手側が対象会社が過去に抱えていた潜在的なすべての労務リスク、例えば未払い残業代や不適切な懲戒処分などに起因する偶発債務をそのまま引き継ぐ点です。

事業譲渡(Asset Purchase)の場合

事業譲渡スキームでは、特定の事業部門や資産のみが対象会社から買い手企業へ移転するため、雇用主が変更されます。この場合、労働契約を買い手企業へ承継させる(転籍)ためには、従業員一人ひとりからの個別かつ明確な同意が必須となります。従業員が転籍に同意しなかった場合、旧会社側で当該従業員の解雇を検討することになり、解雇の場合は対象会社は法定の解雇補償金を支払う必要があります。事業譲渡においては、転籍交渉の円滑化が成功の鍵となります。

スキーム選択がもたらす人事・労務リスクの比較

タイのM&Aにおける人事・労務戦略を立てる際には、以下の比較を参考に、DD(デューデリジェンス)の焦点とPMI(Post Merger Integration)戦略を決定する必要があります。

M&Aスキーム別:労働契約承継ルールの比較

項目株式譲渡(Stock Purchase)事業譲渡(Asset Purchase)
雇用契約の承継自動的に承継される(雇用主変更なし)買い手への転籍に個別同意が必要
承継後の労働条件原則として維持。不利益変更に同意必須権利、義務は引き継がれる
潜在的な過去の労務リスク全面的に引き継ぐ(労務DDが最重要)原則として引き継がない(転籍合意に基づき、新しい契約が開始)
リストラ(人員整理)の難易度高い。整理解雇の厳格な要件を満たす必要あり同意拒否者の雇用関係は自動終了するが、対象会社側の退職金支払義務が発生

タイのM&Aにおける労務デューデリジェンスの重要点

タイのM&Aにおける労務DDは、特に株式譲渡スキームにおいて、対象企業に潜在する労働債務を特定し定量化するために極めて重要です。タイのM&Aにおける労務DDは、取引価格や契約条件を決定する上で決定的な役割を果たします。

未払い賃金・残業代リスクの定量化

タイの労働法は残業代の計算について厳格な要件を定めており、特に日本の経営層が「管理職」と判断し残業代を支払っていない従業員が、タイの労働法上では支払い対象となるリスクがあります。たとえ管理職の肩書であっても、雇用、賞与の付与、または解雇を行う権限を有していない場合は、時間外労働手当等の支給が必要となる場合があります。

労働契約書と就業規則のコンプライアンス検証

就業規則の有効性の検証は、労務DDの重要なチェックポイントです。労働者を10人以上雇用する雇用主は、タイ語の就業規則を作成し、労働者が容易に閲覧できるように職場内の公の場に掲示するなど、周知徹底しなければなりません。就業規則に不備があると、M&A後の待遇変更や懲戒処分を実施する際の法的防御力が低下する可能性があります。また、有期雇用契約が反復して更新されている場合、事実上の無期雇用契約と見なされるリスクがないかどうかも評価する必要があります。

労働組合と福祉委員会の活動状況の確認

対象企業に労働組合が存在する場合、M&A後の労働条件や統合計画への影響を精査する必要があります。また、タイでは従業員が50人以上の企業には福祉委員会の設置が義務付けられています。DDではこの福祉委員会の存在や過去の紛争履歴を確認することで、統合後のコミュニケーション戦略を立案するための基礎情報とします。

M&A後の待遇変更と不利益変更の法的要件

M&A後のPMIプロセスでは、新しい人事制度への統合のために、賃金体系や手当、就業規則の変更が避けられない場合があります。タイの労働法は、労働者保護の観点からこれらの変更、特に労働者にとって不利な変更(不利益変更)に対し厳しい制約を課しています。

不利益変更の原則:個別同意の絶対的要件

賃金、手当、休暇日数など労働条件を労働者にとって不利に変更する場合、タイ労働者保護法に基づき、原則として従業員個別の書面による同意が必須となります。この個別同意の要件は厳格であり、名目上「手当」を「基本給」に振り替える場合であっても、将来的に労働者にとって不利益が生じる可能性があると判断されれば個別同意が必要です。

同意取得の手法と法的安定性

待遇変更に対する従業員の同意を取得する際、最も推奨されるのは従業員一人ひとりから個別の同意書面を取り付ける方法です。この方法は手間がかかるものの、紛争が発生した際に労働局や労働裁判所に対して提出できる最も強力な証拠となります。

一方で、効率性を求めて「不同意の申し出がない場合の同意みなし」手法を採用するケースもあります。しかし、実際に訴訟となった場合、裁判所がこの「同意みなし」の証拠力を認めるか否かはケースバイケースで判断されるため、法的安定性には不確実性が伴います。

同意が得られない場合の対応戦略

全従業員から同意が得られない場合、同意しない従業員に対しては、旧労働条件(旧就業規則)が引き続き適用され、「新旧が混在する二重の労働条件体系」が発生します。これは人件費管理の複雑化や従業員間の士気の低下につながり、PMIにおける大きな障害となり得ます。実務上は、非同意者に対して旧規則を適用し続け、定期的に交渉を試みながら自然な退職を待つ長期的な戦略が取られることがあります。

タイのM&Aに伴う人員整理と解雇規制

タイのM&Aにおける人事戦略、特に組織再編に伴う人員削減は、タイの解雇規制が厳格なため、最も高リスクな労務課題の一つです。部門統合や効率化を目的とした人員削減は「整理解雇」として扱われ、労働者の懲戒事由がない限り、常に法定解雇補償金(Severance Pay)の支払い義務が伴います。

整理解雇を正当化するための法的要件

タイの労働裁判所が整理解雇の有効性を判断する際、企業側は以下の要件を客観的に立証する責任を負います。

  1. 経営上の真の必要性:M&Aに伴う効率化や部門重複解消など、客観的にやむを得ない経営上の理由に基づくこと。
  2. 解雇回避努力義務:配置転換の検討や一時帰休の実施など、解雇を回避するための最大限の努力を行ったことの証拠を提出すること。
  3. 人選の合理性と公平性:解雇対象者の選定基準が恣意的ではなく、客観的な業績評価やスキルに基づいて公平に行われたこと。
  4. 手続の妥当性:解雇予定日より60日以上前の事前通知義務を遵守すること。また、法定解雇補償金は解雇と同時に遅延なく支払われる必要があります。

法定解雇補償金の概要

タイにおいて雇用主が労働者を解雇する際、解雇補償金を支払う必要があります。この金額は労働者の勤続年数に応じて異なり、勤続20年以上の場合、最終賃金の400日分以上を支払う義務が発生します。

法定解雇補償金額(勤続年数に基づく)

勤続年数解雇補償金の額
120日未満支払義務なし
120日以上1年未満最終賃金の30日分以上
1年以上3年未満最終賃金の90日分以上
3年以上6年未満最終賃金の180日分以上
6年以上10年未満最終賃金の240日分以上
10年以上20年未満最終賃金の300日分以上
20年以上最終賃金の400日分以上

整理解雇の場合、雇用主は通常の法定解雇補償金に加えて、勤続期間が6年以上である労働者に対し、勤続1年につき最終賃金の15日分分の特別解雇補償金を支払う義務を負う可能性があります。

リスク回避のための実務的戦略

強制的な整理解雇は、手続要件の厳しさから、常に不当解雇訴訟のリスクを伴います。このリスクを回避するための実務的な戦略として、法定解雇補償金に上乗せした特別手当(プレミアム)を提供し、労働者が自発的に契約終了に同意する方法が推奨されます。一時的なコスト増を伴いますが、訴訟リスクと統合遅延リスクを軽減し、PMIを予定通り実行するための手段となり得ます。

タイのM&Aにおける労働法務に関するよくあるご質問(FAQ)

タイのM&A市場における人事および労働法務は複雑であり、日本企業の経営者や現地法人責任者から多くの疑問が寄せられます。ここでは、タイのM&A労働法に関連する主なご質問とその回答をご紹介します。

Q:株式譲渡の場合、従業員の雇用は自動的に承継されるのでしょうか?

株式譲渡スキームでは、買収対象会社の法人格がそのまま存続するため、雇用主は変更されません。したがって、すべての従業員の労働契約は自動的に買い手側(存続会社)に完全に承継され、勤続年数も維持されます。この際、個別の従業員同意は必要ありませんが、買い手は対象会社が過去に負っていた未払い残業代などの潜在的な労務リスクも全て引き継ぎます。

Q:事業譲渡の場合の従業員の転籍手続はどのように行いますか?

事業譲渡の場合、雇用主が旧会社から新会社へ変更されるため、労働契約を新会社へ承継(転籍)させるためには、従業員一人ひとりからの個別かつ明確な書面による同意が原則として必須となります。従業員が転籍に同意しない場合は、旧会社が当該労働者の解雇を検討し、その場合は法定の解雇補償金を支払う義務が生じます。

Q:タイの解雇規制は厳格ですが、M&A時の人員整理の可否は?

タイの解雇規制は厳格であり、M&Aに伴う組織の効率化を目的とした人員削減(整理解雇)を行う場合、法定の解雇補償金を支払う義務があります。さらに、整理解雇の正当性を担保するためには、「経営上の真の必要性」「解雇回避努力義務」「人選の公平性」「手続の妥当性」という法的要件を客観的に立証する必要があります。訴訟リスクを避けるため、法定額に上乗せした補償金を検討し、合意解約を促す戦略が推奨されます。

Q:試用期間中の従業員を解雇する際に事前通知は必要でしょうか?

試用期間は通常119日以内で設定されることが一般的ですが、試用期間中であっても、期間の定めのない雇用契約とみなされるため、解雇する際には一賃金支払い期間前の通知が必要となります。

Q:労働条件を不利益に変更する場合、どのように同意を得るべきですか?

賃金や手当などの労働条件を従業員にとって不利に変更(不利益変更)する場合、タイ労働者保護法に基づき、従業員個別の書面による同意を事前に取り付けることが必須です。この個別同意が、紛争発生時に最も法的安定性の高い証拠となります。一方、「不同意の申し出がない場合は同意とみなす」という手法は裁判所での法的安定性が保証されないため、高リスクな変更においては個別同意の徹底が推奨されます。

まとめ

タイのM&Aにおける労働法務の成功は、保護主義的な労働法体系と厳格な解雇規制に対する深い理解に基づいています。特に、株式譲渡と事業譲渡では従業員承継のルールが異なり、M&A後の待遇変更やリストラ(人員整理)には、個別同意の取り付けや整理解雇の要件の遵守といった厳格な手続が求められます。タイのM&Aにおける労務DDを徹底し、潜在的な未払い残業代やコンプライアンスリスクを特定することが、円滑な組織統合(PMI)の鍵となります。

みつきタイは、新規進出から会計税務、M&Aまで一気通貫で対応できます。バンコクに常駐するCPA(公認会計士)が、現地の日系またはローカルの弁護士とも連携し、タイにおける人事や解雇規制などの最新の労働法務に基づき、最適な解決策を提案します。会計事務所の変更のご相談も承っていますので、まずはお気軽に無料相談フォームよりお問い合わせください。

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